2024/12/18
大きな扇風機から部品が一つ欠けたとしよう。その扇風機は、そのままでは本来の性能を十分には発揮できないかもしれない。だが、今手元にないその部品をどこかに保管し、いつか取り戻す日を待つのか、それともその欠損を前提として、現在ある機能や構造でなんとか風を送ろうと工夫するのか——そうした選択は、人生にも通じるところがある。
人生にはしばしば、何らかの「欠損」や「喪失」が生じる。夢、能力、関係、または大切な存在を失い、元通りの「完全な自分」には戻れないと感じることもある。けれど、そこに立ち止まって嘆くか、あるいは限られた条件下で新たな道を模索するかは、自分自身の生き方に委ねられている。
保管している「部品」に執着し、「それさえ戻ればかつての勢いが取り戻せる」と信じて時を待つのも、ひとつの選択肢だろう。それは希望や信念、あるいは再起を約束する心の拠り所になるかもしれない。しかし一方で、今目の前にある資源や環境で風を送ろうとすること――欠けた部品を補うべく新たな工夫や発想を生み出し、独自の「不完全な完成形」を築くこともできる。そこからは、失われたものがあるがゆえに生まれる新たな価値や、前とは異なる創造的な生き方が立ち上がる。
人生も同様だ。何かが欠けたままでも、それを嘆く代わりに今できることを考え、工夫して進むことで、新たな自分像や生き方を切り開いていける。元通りにはならないからこそ、私たちは新しい可能性へと手を伸ばす。結局、人生は単なる「完全性」ではなく、その欠損や不完全性を抱え、なお前進するプロセスこそが、大いなる意味をもたらすのではないだろうか。
それはひとしきり嘆いたあとに訪れる考え方ではないか?
このような考え方は、多くの場合、嘆きや悲しみを十分に味わった後にこそ生まれるものかもしれない。私たちの心は、喪失や不完全さに直面したとき、まずはそれを嘆く。なぜなら、その嘆きは、自分が大切にしていた価値や可能性を失ったことへの率直な反応であり、心の整理を行うために必要なプロセスでもある。
嘆きの段階では、人は「戻らないもの」に執着し、その不在や欠損をありのままに受け止めることが難しい。しかし、感情の波が収まり、時間の流れが心を落ち着かせたとき、人は少しずつ前を向く余裕を取り戻す。そのとき初めて、「欠けたままでも動かす」ことへの発想や、今ある資源での新しい工夫への目が開かれる。
悲しみや嘆きは決して無意味なものではなく、後に訪れる再起や創造的な転換点を準備する大切な「感情の揺りかご」と言える。嘆き終えたあと、心は空白を抱えつつも柔軟になり、そこで初めて「欠損を前提とした新しい動かし方」を生み出せるようになる。だからこそ、あの視点は、嘆きが過ぎ去った後の、一種の成熟した精神状態からこそ得られるものなのだろう。
時に扇風機は、自分に風を送らなければならない。
扇風機は本来、部屋の空気を動かし、人々やその場にある何かに風を送り出すための存在だ。しかし、状況によっては、その風が自分自身を冷まし、回転し続けるための循環を生み出す必要もあるだろう。つまり、自分に対してもその「風」を与え、自己調整や自己再生を行うことが求められる場面もある。
人生に置き換えれば、人はしばしば周囲のために動き、エネルギーを注ぎ出す。人々のために尽くし、環境を整え、誰かを支える。それが喜びとなることも多いだろう。だが、あまりに外へと気を配り続ける中で、自分自身を省みることを忘れ、自己が疲弊してしまうことがある。そんなときには、自分自身へも風を当てる—つまり自分の心身をケアし、内なるバランスを整え、休息や自己充足を得る必要が出てくる。
「自分に風を送る」という行為は、自己愛や自尊感情を保ち、自分の原動力を維持する行為といえる。扇風機がただ他者や空間に風を送り続けていても、内部が熱を持ちすぎれば回転機構が痛み、故障するかもしれない。だからこそ、ときには自らに向けて風を吹きかけ、冷却し、再び周囲に風を送り続けられる力を取り戻す必要がある。これは人間においても同じであり、自己肯定やセルフケアという形で、自分自身をいたわり、メンテナンスし続けることが、長く大きな意味で周囲や社会に貢献し続けるための鍵となる。