涼しい僕たちは扇風機を使う

扇風機が生み出す風とカルチャーを探求しています。

第1章 「風を与える幸福」

time 2024/12/17

 梅雨明けのある朝、亮は古びた押し入れの奥から、埃をかぶった扇風機を引っ張り出していた。実家暮らしも長くなり、近頃は仕事で遅く帰ってくることも増えた。夏の夜に風が欲しくなるのは当然のことだが、エアコンをつけっぱなしにするのはなんだか気が引ける。電気代もそうだが、締め切った空間に人工の冷気を当て続けると、心まで冷えきってしまうような気がしてならなかった。そこで思い出したのが、この古い扇風機だった。金属製の羽根が光を反射し、スタンドに貼られたメーカー名はすでに半ば剥がれ落ちている。昭和時代の品なのかもしれない。それでも、コンセントを差し込むと、懐かしいモーター音を立てながら首を振り始めた。

 夜、畳の上にゴロリと横になって、扇風機の風に当たる。柔らかな風が汗ばむ肌を撫で、自然と心の力が抜けていく。エアコンほど強烈な冷気ではないが、その温度差の少ない微風は、まるで自然の中で涼を得るような、穏やかな心地よさをもたらした。窓をわずかに開ければ、外の夜気と扇風機の風が入り混じり、室内は静かな森の中にいるような錯覚すら起こさせる。

 亮は思った。もし扇風機が人を幸せにするのだとしたら、それはきっと「風」という形のやさしさで人間を包み込むからだろう。外気との緩やかな橋渡しをし、人が自然を感じる一助となり、酷暑の日々にも心に余裕を生む。あるいは、その規則的な回転音は子守唄のように眠りを誘い、日中に溜まったストレスを小さく羽ばたく風とともに吹き飛ばしてくれるのだ。

 そんなことを考えながら、亮は扇風機の前で瞼を閉じる。ひと昔前の家庭では、夏の夜に扇風機の風にあたりながら、家族がだらだらと会話したり、テレビを見たりしていた光景を思い出す。その風景に欠かせない道具がこの扇風機であり、その時代特有の「ゆっくりとした幸福」だったのだ。扇風機を使うだけで、日々の慌ただしさが和らぎ、ほんの少しだけ心が解放される。そうして亮は、かすかに微笑みながら眠りに落ちていく。

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